才能と努力

id:ryasuda:20040823#p2で、「才能偏重」の問題について触れられていました。
私は天才*1、もしくは「天賦の才」というものを全く信じていません。例えば、素晴らしい発想をするとか、素晴らしい演奏をするとかのパフォーマンスを目にすると、天才という表現が出てきます。これは、その素晴らしい発想に至った思考の道筋や、その素晴らしい演奏テクニックを習得する練習過程が、それを見た人間にとってブラックボックス(想像できない、未知である)であるときに、出てくる表現ではないでしょうか。普通の人間には無理だと。しかし、目撃者にとってブラックボックスであるというだけで、実際には何か連想を導く経験が当人にあったのかもしれないし、短時間でテクニックを習得するコツが当人にはあるのかもしれません。それを安易に「生まれつき」と解釈するのは間違っていると思います。私がオリンピック選手を見ていて思うのは、「よっぽど練習したんだなあ」という感想であって、「すごい才能*2天才だな」ではありません。
スポーツ選手の遺伝子多型を調べる研究が盛んに行われているようですが、これもよく分かりません。その選手が優秀であることを後付け的に説明することはできても、将来の金メダルの卵など見つからないでしょう。例えば、筋肉の線維を構成するミオシン遺伝子に多型があって、筋線維の太さが違うとします。このときに同じ環境で育った異なる遺伝子多型を持つ選手の二群で、レッグプレスをやらせて大腿筋の筋力を測定して平均値を群間で比較すれば、成績に有意な差が出ると思います。けれどもそれぞれの群の中にもばらつきがあって、成績の良い人、悪い人がいるでしょうし、遺伝子多型と成績が逆転するケースもあるでしょう。だからこそ、動物実験などで行動評価を行うときはn数を増やす必要があるのです。
ましてや、選手が行うのはレッグプレスではなく、マラソンやバレーボールといったスポーツです。スポーツ競技は、様々な遺伝子多型を持ち、様々な環境で育った様々なバイオリズムの状態の、「個」の比較です。だからこそ結果が予想できないし、面白いのだと思います。
多くのスポーツ選手が「スポーツ発展のため、後進の選手のため」という誘い文句に乗って、望んで遺伝情報を提供しているようですが、遺伝学研究者の浅はかな好奇心を満たして間違った方向に研究を進めるだけで、スポーツ選手にとって良いことなんか何もないように思います。

*1:8/26追記:ここでは「天才」とは「生まれつき備わっている、きわめてすぐれた才能。また、その持ち主。」と定義します。

*2:8/26訂正:「才能」は「物事をうまくなしとげるすぐれた能力。技術・学問・芸能などについての素質や能力。」という意味で、「生まれつき」という意味は含まれません。僕自身、言葉の使い分けができていませんでした。訂正いたします。